料理をする意味

週末、市内の小学生低学年を対象に料理教室を実施予定。加えて、夏休みの子どもたちは弁当持参。その弁当を子どもたち自身が作ったり、手作りを持たせている。それにあたり、土井善晴さんんの「暮らしの中の料理学」を読み、料理する意味を考え、記録に残す。

自分の結論は「料理は生きる力が身につき、生活に潤いを与える」ということだと考える。

 

①生きる力が身につく

「食べる」という行為は、生きている限り続く(胃ろうなどは除く)。その食べるにつながる「料理」を自分で出来るようになることは大きな意味があると思う。料理はそのままで食べることが難しいものを加工する行為だ。例えば、米はそのままでは食べることができないし、一部の野菜、肉や魚などもそうだ。米は炊飯することにより、炊き立ての美味しいご飯が安価で食べること可能で、野菜や肉、魚なども料理をすることで、いろいろな形に姿を変え、美味しく、食べやすくすることが可能であり、そのことを知っておいて欲しい。そして、料理をするためには、時には包丁や火が必要であり、これらのものは便利である反面、危険なものであることを体験できる。

また、いつか経済的に苦しくなったとしても、食事の準備が自分でできれば、圧倒的に満足感を残しつつ、食費を減らすことも可能である。その浮いたお金で、もっと別の何かをするという選択肢が広がる。まさに生きる力だと思う。

他にも、書籍にでてくるように食事を準備してもらうことができない子もいるかもしれない。それでも、米が炊けて、味噌汁が作ることができれば子どもだって、温かい食事が準備可能だ。温かいご飯=レンチンご飯は別物で、炊き立ての香りはレンチンでは味わえない。

生きていく中で、人とのかかわりは重要だろう。だが、現在、自分が関わっている学生たちをみていると、人を思いやる気持ち、あまりにも考えない行動などに驚かされる。せめて、自分のこどもたちは、こんな風にしたくないとも思う。

そんな時にも、暮らしの中で説かれている「料理の利他性」が役立つのではないだろうか。利他とは、無意識に他人の幸福を願うこと、無意識に自分を犠牲にして他人に利益を与えることとされている。料理はこれに当てはまる。自分の時間を使って、家族などの自分以外を喜ばす行為にほかならない。子どもの頃に、自分が作った料理で親が喜んでくれる、家族が喜んでくれるそんな体験を積み重ねをることで、無意識に他人の幸福を願えるような優しい子に育つのではないだろろうか。優しい子であれば、まわりの人にも恵まれるだろう。

 

②心を潤す。

小学生の頃は料理をした記憶はほとんどないが、ひとり暮らしを初めたのをきっかけにちょこちょこと料理をするようになった。当時はお金に困って自炊をしていたというより、バイトや友人との約束がなく、夕食を自宅でゆっくりしたいなぁという時にサンマを焼いたり、おにぎりを握ったり、豚汁を料理していた。そして、とても美味しく、その時間がとても有意義に感じたこと。これはコンビニ弁当や惣菜では、こういった気持ちは生まれなかったと思う。これは、現代のひとり暮らしで料理をすることは合理的ではないかも知れないが、食事に情緒が生まれ、心に潤いができていたのだと思う。それを、自分は無意識にわかっていたのではないかと、土井善晴さんの「くらしのための料理学」を読んで思った。

育ってきた環境の違いもあるが、自分は夕食の食卓がファスト―フードのみや、総菜のみの食事が続くのはとても寂しく、自宅で生活している感じがせず、いつかは食事が楽しみではなくなると推測できる。やはり、そこには料理がもたらしてくれる心の潤いがないからだろう。

最後に、料理をすることで食事準備をする人への感謝の気持ちが生まれる。基本は子どもの食事準備は、親がするものだと思うが、それについて、感謝の気持ちを持つといっても、ただお金をだしてもらっただけと、毎日弁当を準備してもらったでは感謝の度合いが違うだろう。食事は出してもらって当たり前ではないことを、大人になっても忘れないでいられるのではないだろうか。人への感謝の気持ちを持ち続けることは心を潤す大事な要素だと思う。

 

以上の二点、自分が考えた料理をする意味についてのまとめになる。

 

#料理 #子育て #土井善晴 #食べる

 

 

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